アジア大陸横断の旅 日本〜中国〜ラオス〜タイ間
今回の旅は、アジア諸国を飛行機を一切使わずに、すべて陸路で旅をしたものである。作者の旅の実体験を元に、日本からインドネシアまですべて陸(航)路で旅する方法を紹介します。
序章
1997年3月・・・
以前インドネシアからタイのバンコクまで陸路で旅をしたことを振り返り、「自分が地球に対して陸路で刻む足跡を、日本からインドネシアまで線で結びたい」と、そういう思いが強くなり、大学の春休みを使って1ヶ月間で、陸路でタイのバンコクを目指して旅をする決意をした。
自分さえしっかりしていれば何とでもなるだろうという、非常に怪しい「見込み」のもとで、まず中国から攻略することにし、3月4日に神戸を船で出発することにした。
1997年3月4日・日本を出国
神戸より、上海行き「新鑑真号」(学生割引・片道13,400円)に乗船。
2泊3日の船旅で中国・上海を目指す。港で出国や入国の手続きをするのは自分自身初めてだった。
ビザは船内で10000円払って取得。日本の中国大使館で取れば3000円で済んだそうで、ちょっと損をした。
船は太平洋を日本列島に沿って進み、鹿児島から東シナ海へ抜けるルートを通る。
3日のうち、朝食だけは料金に含まれている。船内にはバーやディスコ(らしきもの)、レストランに大浴場、シャワーが備わっている。自分の滞在した2等客室は4人1室の共同部屋で、造りは寝台列車のような感じである。
船は中国の会社のものであり、船員も中国人であり、船内の案内も中国語で書かれている。内部はすでに中国の雰囲気がしていた。徐々に自分を中国へ馴らしていくには良い環境である。
自分は食費を抑えるためにカップラーメンなどのインスタント食品を持ちこんでいたが、そういう人は結構多いようだ。各部屋にはお湯の入ったポットがあるため、カップラーメンやインスタントコーヒーとかを入れるのには困らない。ただ、朝食は運賃に含まれているので、朝からカップラーメンを食べなくてもいいので良かった。
中国では、ホテルや長距離電車などではいつでも熱いお湯が手に入る(というかポットが置いてある)ため、インスタント食品は重宝するものである。お茶を入れたりするときに耐熱製のコップは必需品であろう。中国を旅行する人は用意したほうが良いと思う。
船の旅は、やることがないと結構暇である。この暇を利用して、同じ部屋にいた中国人夫婦とその子供にいろいろ中国語を教えてもらった。彼ら夫婦は中国で先生をしていて、この時は子供を連れて東京に遊びにきていたという。
2日目になると、周りには水平線以外何も見えなくなり、ただゆったりと東シナ海を進みつづける。
船内でやることがだんだんなくなってくるのも事実だが、こういう場だからこそ知らないもの同士でも仲良くなり、そこから一緒に旅をはじめる人もいる。天気がよい日はデッキで背中を焼いたり、せまいデッキでサッカーをしている人もいる。
3日目朝起きると、船が進むほどに真っ青な海の色が徐々に茶色くなってくる。空気もだんだんかすんでくる。
揚子江のほとりまで来ている証拠だ、が川幅が広すぎて陸地はしばらくは見えない。だんだん漁船が見えるようになってくると、陸地も見えるようになってくる。
1997年3月6日・中国に入国
はじめてみる中国が上海であると、その街の近代さに驚く。「これが中国か、思ったよりも進んでいる」と。
だが、後ですぐに気がつくのだがそれは大都市の表向きの部分だけの事である。
上海では、新鑑真号船内で薦められた「東虹大酒店(Rainbor Mansion)」に宿泊。1泊1200円だった。日本人の安宿旅行者(?)の間では浦江飯店(プーシャン・ファンディエン)が有名で、船に一緒に乗っていた人の中にはそこへ行った人が多かった。
上海→北京【列車移動】
次の日、北京に移動することにした。中国で列車のチケットを買うのは、半日列に並んでやっと買えるか買えないかの大仕事であるが、上海駅では、外国人旅行者用のチケット窓口で長い列に並ばずに切符を買うことができた。
一番安い硬座電車の切符を買い、14時間くらいの夜行電車の旅となる。
中国の電車には硬座(「インツォ」と読む=硬いイス)と硬臥(「インウォ」と読む=硬いベット)、そして軟座(「ナンツォ」と読む=柔らかいイス)と軟臥(「ナンウォ」と読む=柔らかいベット)がある。後ろのものほど等級が高く、値段も高い。エコノミーな旅をする人には硬臥がおすすめです。
最近になって、一昔にあった「外国人料金(現地人の2〜3倍の運賃)」の制度が廃止され、外国人でも現地人と同価格で列車のチケットを買えるようになっていた。
北京には早朝到着。
まずは重い荷物から開放されるために、宿探しから始める。地下鉄とバスを乗り継いで、ガイドブックに載っていたホテルを探した。行きついたのは。北京の南のほうにある、1泊25元(約400円)で20人部屋のドミトリーであった。100元くらい出せばツインの部屋に宿泊できるが、一人で旅行するにはドミトリーのほうが楽しい。
ここで、タイからラオス経由で北京までやってきた人に会い、中国南部経由の国境越えルートがあることを知る。それまでは、香港・ベトナム経由でタイまで行こうと考えていたが、これで中国内陸ルートを通ってラオスへ行くことにした。
街での食事
食事は、たいていは屋台で食べることが多かった。朝はだいたい2元で、揚げたパンみたいなものや、「月餅」(ニラの入った肉まんをつぶして焼いたようなもの)をよく食べた。
北京では数日滞在した。その間、最初の2日間で天安門広場や故宮(紫禁城)を回り、その後同じ宿のドミトリーの部屋で知り合った人と共に、万里の長城に行った。
故宮(紫禁城)や北京市内観光
宿が決まった後は、故宮に行ったり、万里の長城へ出かけたり、街を散策したり市内の観光をして楽しんだ。
北京は、上海ほどビルや社会施設が整っていないが、外国の店がいろいろ進出している。吉野家や、洋服の青山、メガネの愛眼、ロッテリア(楽天利)、マクドナルト(麦当労)、ケンタッキー(肯得基)などを見かけた。
万里の長城へ観光
北京の観光の後、同じ宿のドミトリーの部屋で知り合った人と共に、万里の長城に行った。
出かけたのは、北京から電車でも行きやすい八達嶺(バーターリン)登城口。
こうして数日間北京で過ごした後、西安へと旅立つことにした。
北京→西安【列車移動】
最近できたばかりの北京西駅より、列車で西安へ移動した。北京西駅は、最近建設された京九鉄道(北京〜香港・九龍をむすぶ高速鉄道)のターミナルとだけあり、(中国にしては)最新設備のそろった大きな駅だった。
ここからロシアのウランバートル行や、おどろくことに北朝鮮の平壌(ピョンヤン)行きの電車も毎日出発している。ただ日本人がこの電車に乗れたとしても、国境で北朝鮮への入国許可が出るかどうかは保証されていない。
電車も例に漏れず、熱いお湯が必ず用意されている。長距離の移動のときにはカップラーメンとリンゴ、そしてお茶の葉を買い電車に乗り込む。
西安は昔、唐時代の首都「長安」と呼ばれた都だけあって、町全体が城壁で覆われている。ここから殷皇帝の墓である「兵馬甬」までは、駅前から出ているバスですぐ行ける。
兵馬甬博物館の沿道で、自分の名前の入った石の印鑑をつくってもらった。最初は1つ60元と言っていたが、しぶとく片言の中国語で交渉したら、1つ15元で作ってくれることになった。
西安→成都【列車移動】
さらに内陸の都市、成都へ向かう。西安の鉄道切符売り場は、うわさには聞いていたが非常に切符を取りにくい場所であった。切符を買うのに半日を要し、やっと買えたのは2等硬座であった。
内陸部を走る電車は、上海〜北京間で使われている新しい列車に比べて古くて汚い車両が多い。ここでの夜行の2等硬座は、この旅の中では一番体にきつかった。例によって人がぎゅうぎゅうづめで、床にまで人が座っている。
煙草の煙は充満するし、ごみが床にたくさん転がっていた。中国人がごみを列車の窓からどんどん捨てているのには一種のカルチャーショックを感じた。ビールびんであろうと、バナナの皮であろうと、ビニール袋であろうとどんどん投げ捨てていく。
やっとの思いで到着した成都は、内陸部を旅した中ではこの街が一番進んでおり、高層ビルの建築ラッシュである。
新しい建物がどんどん街に増えていく一方、一歩街の中に足を踏み入れると、小さな市場や商店がたくさん存在している。
ここは西のモンゴルの地へのゲートウェイになっているため、イスラム教(真清)を掲げるお店がたくさん存在する。
この地では交通飯店(Jiao Tong Fang Dian)に滞在するが、この時北京で万里の長城へ一緒に行った人ともひさしぶりに再開した。やはりこの街もアジアを旅する人の進むメインルートになっているようだ。
成都→昆明【列車移動】
さらに南へ列車で移動し、中国最南端の雲南省・昆明を目指す。
成都から昆明の移動には硬臥を使用した。硬座にくらべて、やはり快適である。
この列車の中で、アメリカのユタ州から来ていた青年のThomasに会う。彼は、大学卒業後この旅に出てきていると言う。そして北のほうからラオスを目指してると言うので、彼としばらくの旅程を共にすることになる。
北京にいた頃はまだ山に雪が残っており寒かったのだが、ここまでくるとすでに春。
列車が進むにつれ、車窓の景色からはすでに菜の花が咲いているのが見えるようになる。
昆明でラオスのビザを申請
昆明にある、ラオス領事館でラオスの入国ビザを申請する。5日間短期滞在ビザがUS$で30ドルかかり、現地の物価に対して高いと思ったが、広東からベトナムを経由してラオスに入国するよりは安全だと思い、こちらを選択した。
ベトナムの国境では、国境警備員に賄賂を渡さないと陸路ではなかなかスムーズに入国できない場合があるという話を旅行中いろんな人から聞いていたからだ。
昆明→大理【マイクロバス移動】
ビザの申請には数日を要したため、その間1泊2日で「大理石」で有名な大理(ダーリー)まで足を伸ばした。泥まみれのマイクロバスには穀物やら、「ひよこ」やらいろんな物が満載されていた。なんでもありである。
到着した大理は内陸部にあり、観光の名所でもあるようだ。
時折少数民族も衣装をまとった女性を街中で見かけるが、これは観光客目当てのコスプレであり、リアルな姿ではなかったのが残念である。
街中を散策した後、郊外にある三塔寺を訪問する。
大理→昆明→景洪【マイクロバス移動】
再び昆明に舞い戻り、ビザをラオス領事館へ取りに行く。この時、ここまで旅程を共にしていたThomasとはぐれてしまうが、彼を探す手立てがないので、仕方なく一人でビザを手にし、さらに南に移動することにした。
昆明から南は電車はないため、バスターミナルでバスを探し、西双版納地区の中心地、景洪(ジンホン)へ移動。ここまで来ると、気候は椰子の木が生い茂る熱帯性の気候になっていた。
ここで1泊した後、さらに南のラオスとの国境地帯へと出発する。
中国南部のこの一帯はお茶の生産地であるらしく、バスの通り道からは茶畑やお茶の直売所などを見かけた。
中国最南端の西双版納地区は少数民族が多い地区でもある。途中、派手やかな色彩の服装をしたダイ族の着飾った女性が茶畑で茶摘をしている姿を良く見かけた。
彼らの服装は、中国というよりもむしろベトナムの服装に近いような感じがする。
景洪→モーハン【マイクロバス移動】
景洪で1泊した後、マイクロバスでモンラーという小さな町(下写真)に移動.
そこでにバスを乗り換え、さらに中国最果ての国境ゲートのある町・磨敢(モハン:漢字では「敢」の下に「心」が付く)を目指す。
ここには、中国-ラオス間で外国人に対して開かれている唯一のゲートがあると、南から来てすれ違ったいろいろな旅行者から聞いていた。
中国南部からラオスの国境付近にかけて移動してくるにつれ、だんだん日本人はおろか外国人旅行者もいなくなってきて、「本当に行けるんだろうか?」と不安になってきたことはあった。旅行中に簡単な中国語を徐々に覚えて、まわりの中国の人たちに親切を受けたおかげでなんとか夕方までに無事たどり着くことができた。
国境ゲートは「磨敢(モーハン)辺防検査駅」といったが、磨敢についた時には手元には中国元がほとんど残っておらず、両替なんてできる場所も無かった。そこに唯一あった宿(下写真左)で、1泊15元(通常シングルで30元らしい)にまけてもらった。
国境警備員の1人が片言の日本語を話すことができたかけてきた。彼の話によると、このゲートを通過する外国人は週に2〜3人いるそうだ。
「昆明ではぐれたThomasもここをかならず目指しているはず」と思い、国境警備員の彼に話を聞くと、「1日前にアメリカ人が1人この国境を通過した」と言っていた。ひょっとしたらそれはThomasかもしれないと思った。
1997年3月24日・ラオスに入国
中国側の国境ゲートと、ラオス側の国境ゲートの間は1キロくらいの丘越えであり、バスに乗り込む。丘の頂上に小さな墓標みたいなものがあり、そこが正式な国境ということだった。
バスを降りてラオスの国境ゲートの事務所に入り、国境で押されたスタンプを見ると滞在可能日数が7日になっていた。混明のラオス領事館の説明では、ビザの滞在可能日数は5日と聞いていたのだが、長い分には問題ないが人によって結構いい加減。
この国境の村で、以前混明〜景洪間をバスで移動していたときに出会った中国人の商人と偶然再開し、気前良くラーメンとラオスのビール(Beer Lao)をおごってもらった。
ほんとうは日本人の自分がおごるべき?だったのかもしれないが、彼はラオスと中国間の貿易で非常に儲かっているといったので、それにあやかることにした。
とりあえず、次の目的地に移動する為に、国境のゲート付近の広場(下写真)で、とにかく行き先を連呼して回りながら乗合バス(トラックの荷台)を探していた時、金髪の旅行者がバックパックを背負って歩いているのを見かけた。近寄って声をかけたら、彼は昆明ではぐれたThomasであった。彼とは4日ぶりくらいに再開できた。
話によると、彼も昆明で自分とはぐれた後、いろいろ探したそうだが、結局見つからず一人でラオスへ移動していたそうだ。その後彼は実家と電話で連絡をとり、4月から仕事の都合で帰らないと行けないことを知り、急いでバンコクへ向かう途中、この日はラオス側へ国境を超えたところで宿泊していたそうだ。
国境→ルアン・ナムサー【四駆トラック荷台移動】
その後、Thomasと共にトラックをつかまえて乗りこみ、北部の県都であるLuan Nam Tha(ルアン・ナムサー)を目指した。
途中の道路沿いの村では、バスが止まるごとに山岳民族の子供たちがたけのこを売りに来た。
Luan Nam Thaに到着後、ここでThomasとは別れることになった。彼はバンコクへ行くため、急いでメコン川のほとりの町を目指すことになる。
この町は山岳民族が多くいると言う話を聞いていた。このLuan Nam Thaの街の市場で自分が見かけた少数民族の少女たち(下写真)は、いったいどの民族であったのだろうか、いまだに疑問である。
ルアン・ナムサー→ムアン・シン【トラック荷台移動】
Thomasと別れた自分は、さらに北部の小さな町のMuan Xing(ムアン・シン)を目指した。
途中、トラックのエンジンが故障した。しかし運転手は自分で工具を取り出して自分で修理をし、1時間後に無事に動き出す。
Muan Xingに到着後、山岳少数民族「アカ(akha)族」に出会うため、この町で3日ほど滞在した。じつは以前タイに行った時、タイ北部で「アカ族」に出会ったことがあったのだが、文明社会の影響を受けていないラオスのアカ族の実態はどうなのかをこの目で見たかったのだ。
朝になると、アカ族は山から何時間もかけてMuan Xingまで出てきて、たけのこやさとうきび、ときにはオオトカゲを売りにやってくる。
自分も、毎朝この朝市に出かけて現地の人と並んでラーメンを食べたり、買い物をしたりした。物価は、こんな田舎であっても、意外にタイの物価より少し高めの水準である。
アカ族の村へ電撃訪問!
朝のマーケットが終わる9時ごろになると、山から出てきたアカ族たちは、自分たちの村へ帰る準備をはじめる。彼らの帰る行き先を確かめ、自分もその山のほうに向かって歩いて行くことにした。
町から歩き始めて2時間ぐらい経ち、途中で水をくみにきていた山岳民族の人たちに出会うことができた。
彼らは自分と会ってもぜんぜん警戒しないどころか、むしろ親しげである。そこで彼らと仲良くなろうと思い、自分の持ってきた日本の5円玉をみんなにプレゼントすると、彼らは非常によろこんでくれた。
アカ族は、光るコインを非常に重宝する、というかひかりものが好きなのである。コインをもらうと、それに小さな糸を通す穴をあけて、帽子に縫い付けてアクセサリーにしている。良く見ると、オーストラリア、イギリス、アメリカなど、いろいろな国のコインが帽子に縫い付けられていたが、日本のお金はなかった。この地を旅行する日本人は少ないのであろう。
歩く途中、彼らがくれたさとうきびときゅうりをかじりながら、一緒に村へとついていくことにした。というか彼らも喜んで自分を村まで導いてくれたようだ。
言葉がほとんど通じないのだが、自分が知っている片言のタイ語や、ジェスチャーとかノートに絵を書いてコミュニケーションすればなんとか通じるものだ。
やはり彼らも自分と同じアジア人なのであることを実感した。ただ、彼らは自分が日本人であることに気がついたのかどうかは疑問である。そもそも日本という国の存在を知っているのかすら、疑問である。
彼らが作った民族衣装の背中には、Tommy Hilfigerとそっくりの赤と白の模様が縫い付けられている。どうやらこれが彼らの民族のアイデンティティであるようだが、いったいどっちがまねをしているのであろうか。
でも、無邪気に遊んでいる子供たちが、5歳までに半分くらいは病気(風邪や下痢)とか怪我で死んでしまうということを聞いたりすると、彼らの為になにか自分もできないかなぁと、そう考えずにはいられなくなる。
この村に1時間ほど滞在し、その間彼らは家の中や村の中をいろいろ紹介してくれ、最後にはサトウキビをくれた。
アカ族の村からの帰り道で…
山を下って、アカ族の村からの帰りがけに、Muan Xingの街の近くの村で、たくさんの子供たちに出くわした。彼らに日本から持ってきた写真入りのテレホンカードや日本の切手をプレゼントした。
コインが好きなアカ族には受けなかったが、現地の子供たちは、非常に面白がって気に入っていた。いろんな小道具をたくさん持ち合わせていてよかったと思う。
ラオスでも、街の子供たちは小学校には行っているようである。彼らは日本という国の存在に気づいてくれたのであろうか?こういう子供たちが、世界中には違った国や文化があるってことに気がついて、将来の夢とか持ってくれたらいいんじゃないかなぁって、そういう気持ちになった。
ムアン・シン→フェイ・サイ【トラック荷台移動】
街で2日ほど滞在の後、トラックで、メコン川に接しミャンマーに面するラオス北部の村、Huay Xay(フェイ・サイ)へ移動することにした。
とりあえず、「フェイサイ、フェイサイ」と行き先を連呼しながら身振り手振りで見つけたトラックには座席はないので、荷台の上に乗りこむことになる。
ここで、ニューヨークから来た女性のKimと知り合い、彼女とタイの国境を目指すことになる。彼女はニューヨークでは先生をしており、先生を辞めて一人でこの場所まできて、アジアを回っているという。
このトラックには、現地人のほかにミャンマーの軍参謀と名乗る青年も同乗していた。彼はロシア人のような顔をしており、英語も話せた。不思議なことに、日本を含めたさまざまな国にビザなし入国ができるという、不思議な身分証明書を持っていた。
ジャングルの中の舗装されていない泥道では移動は困難を極めていた。トラックのタイヤが泥の中に埋もれて動けなくなると、乗客全員でトラックを引っ張りあげるという作業もしょっちゅうであった。
わずか数十キロの道を移動するのに10時間以上かかった。夕方になり、途中トラックは川岸で休憩のため停車すると、現地の人々は男も女も川で水浴びをはじめた。朝出発したトラックがHuay Xaiに着く頃には、すでに夜の帳は降りていた。
この街に1泊することにし、翌朝、タイまで戻るべく船を捜すことにする。
メコン川下り【モーターボート】
翌朝、メコン川を下流へ移動するためにモーターボートに乗せてもらうことにした。この対岸はミャンマーのはずなのだが、国境警備もなくのどかな雰囲気である。
現地の人は、パスポートなど持っているはずもなく、ボートで対岸を気軽に行き来しているが、いいのであろうか?(写真の手前はラオス、対岸はミャンマーである。)
スピード・ボートの船乗りと交渉して、Kimと2人で50USドルを支払う。この値段は少し高めであるが、これ以上はまけてくれなかった。ほかにもゆっくり走る定期船(スロー・ボート)が有るらしいが、滞在期限が残すところあと2日に迫っていたので、スピード・ボートを使うことにした。
ラオスでは、お金は現地通貨が当然用いられるが、USドルでも受け入れてくれる場合がある。ラオスの通貨が不安定なために、彼らは自分の財産を世界の基軸通貨であるドルで持っておきたいという思いがあるようだ。
タイ・ミャンマー・ラオスの3つの国境が重なる「ゴールデン・トライアングル」を横目にメコン川をスピード・ボートで下る。
モーターボートは、水面を時速数十キロ近くの速度ですべるよう進んでいくので、陸上でトラックで移動するよりもずいぶん早くて快適である。この数時間のボートの旅の後、ラオスの港町に到着する。
そこで出国手続きをし、渡し舟でメコン川対岸のタイへ渡る。
1997年3月30日・タイへ入国
タイのChiang Kong(チェーン・コン)に入境。
街を歩き回り、その日の夜に出発するバンコク行きの夜行バス(220バーツ)を見つけ、足早にバンコクまで行く。この地は初めて訪れたはずなのだが、ラオスから来ると「やっと文明国に戻ってきた」という、妙に落ち着く気がした。
早朝、バンコクのバスターミナルに到着するが、市内までの公共機関がわからなかった為、近くにいた北欧より来たという外国人旅行者に声をかけてタクシーに便乗する。バスターミナルから外国人バックパッカー御用達の宿が集まる「カオサン・ロード」まで約150バーツ(約600円)と、タイでは高めのだまされたような値段だったが、自分たちがタイ語が話せない為それもやむをえない。
カオサン・ロードでは、2年前に宿泊した宿に再び滞在することにした。以前は1泊50バーツであったのが、60バーツに値上がりしていた。
バンコクに到着した翌日、カオサン・ロードにある旅行代理店で日本行き航空券(エジプト航空、片道約3万円)を購入。
出発まで残された日を利用して、バンコクの少し郊外にある古都アユタヤに行ったり、タイのエメラルド寺院を見たりした後、帰国した。
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