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序章・出発準備 anchor.png

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1994年4月 anchor.png

「このまま平凡に大学生活を続けて、卒業してしまっていいのか」という思いが自分自身の中によぎり、休学してでもオーストラリアに行ってみる事を決意した。

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1994年5月13日 anchor.png

「思い立ったが吉日」ということで、先にパスポートを取得することにした。

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1994年6月頃 anchor.png

この頃から、バイトを増やして資金作りと、出発までの計画を立て始める。

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1994年10月14日 anchor.png

オーストラリア政府発行のワーキングホリデービザを取得。当初は行く時期は11月から翌年(1995年)の3月までとしていた。航空券と海外旅行傷害保険を出発2週間前に取得する。その他、国際免許証、ユースホステル会員証、国際学生証も準備した。残った準備資金は44万円で、すべてトラベラーズチェック(T/C)で持っていく事にとした。

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第2章・旅立ち anchor.png

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1994年11月4日(金曜日) anchor.png

名古屋空港発、大韓航空ソウル経由シドニー行きで、日本を出発する。

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1994年11月5日(土曜日) anchor.png

早朝、シドニーのKingsford Smith Airportに到着。
さっそく語学学校探しと、銀行口座の開設を考えたが、到着日が土曜日だったため、オフィスはすべてクローズ。
週が開けるまでは、新生活に向けての準備が進まなかった。

しかたがないので、cityの西のGlebe Point(グリーブポイント)のユースホステルに泊まる事にした。バスののり方も知らない自分は、20kgくらいあるバックパックを抱えてひたすら歩いていこうとするが、困っているところを親切なオージー(Aussie:オーストラリア人の愛称)に声をかけられ、車に乗せていってもらった。

まだこのときには新しい生活の地をどこにするかは決めていなかった。ユースホステルは4人部屋のドミトリーで、一泊A$18であった。
旅行中のフランス人たちとビールを飲みながら話をしたが、このころはまだ英語を聞く能力も話す能力もなかったので困った。

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1994年11月6日(日曜日) anchor.png

最初の1週間くらいは情報収集が必要と判断し、シドニーのBondi JunctionにあるBASIC PLAZAという日本人向けの情報センターでウィークリー・フラットを探し、Kings Cross付近のDarling Hurstというところに1週間滞在する。一週間でA$165であった。すこし高いとは思ったが、落ち着ける場所がほしかったのでこれくらいはやむなし。

BASIC PLAZAでは、日本のレンタルビデオを借りることが出来、日本の漫画の図書館もある。ここにたむろして一日中そこで日本の漫画を読みふけっている日本人のワーキングホリデーで来た若者達を見ていると、「この人は何しにここまで来たんだろう?」と嫌気が差す。

1週間住むことになったフラットの住人はみんな日本人で、彼らの友人も職場も日本人ばかりだそうだ。「これじゃ日本に住んでいるのとあまり変わらないや」って、期待外れ。

驚いたことにここに住んでいた日本人は部屋に集まってマリファナを吸っていた。オーストラリアでは一部の州(South Australia)ではマリファナが合法だからここでも規制が緩いと彼らは言う。いよいよ「これがワーキングホリデーの現実か」と呆れ、早々にこの場所を出たいと思った。

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1994年11月7日(月曜日) anchor.png

さっそくの週始め、まずはANZ Bankに銀行口座を開設。T/Cをすべて銀行口座に移した。

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当時のオーストラリアの銀行事情 anchor.png

オーストラリアの銀行は、日本の銀行に比べて金利が高めです。
日本では考えられませんが、定期預金になると、年利8%くらいある事があります。(1995年現在)

もし、日本から資金を持っていこうと思うのなら、円→AU$のレートがいいときに両替をしてT/Cで持てるだけ持っていき、現地に着いて銀行口座を開設して、すぐに使う見込みのない分は定期預金にしていくといいんじゃないかと思う。まだまだ円高が進みそうならば、日本円のT/Cを持っていって現地で両替するのも手です。

ちなみに両替のレートは銀行によって異なります(日本、オーストラリアとも)。
あと、銀行によってサービスや手数料が結構異なっており、小切手をただで発行してくれる銀行や、いつでも何回お金を引き出しても手数料がかからない銀行とか、違いがあります。

http://www.hvd.jp/images/auslife/bank_card.jpg

小さい銀行のほうがサービスのいい傾向があり、大きい銀行(ANZ Bank, Westpak Bank, Commonwealth Bank, National Australia Bank,の4つ)と提携して、これらのキャッシュコーナーを手数料無料で使用できる場合が多いので、比較してみるといいでしょう。

日本でも、最近になって銀行のカードで即時引き落としできるシステムができましたが、オーストラリアではこのとき(95年)にもうすでに、eftposという銀行のカードで決済するシステムができており、スーパーマーケットの買い物やガソリンスタンドも銀行のカードと暗証番号でお金が払えるシステムになっており、大変便利でした。また、銀行のキャッシュコーナーは(300ドル以内と限定があることが多いが)24時間お金が引き出せます。

http://www.hvd.jp/images/auslife/eftpos.jpg

こういうことを調べるのも結構英語の勉強にもなります。

さて、銀行口座を作成した後は、Sydney CityのClarence St.にある、ワーキングホリデー事務所の紹介で、事務所となりの語学学校斡旋センターに行き、そこで語学学校探しをする。
11月(あちらでは初夏)なのに少し肌寒いシドニーからもっとTropicalなところがいいと思い、ブリスベンをターゲットにして学校を探した。

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1994年11月8日(火曜日) anchor.png

ブリスベンの語学学校とホームステイ先を決めた。学校は授業料が週A$200で、ホームステイ滞在費は週A$130と、一番安いのが選考基準だった。斡旋センターの斡旋手数料は一切無しだった。おそらく語学学校のほうからコミッションを受け取るのであろう。

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1994年11月9日〜11日 anchor.png

語学学校もステイする場所も決まり、一安心。Red Passという区間内バス・地下鉄・フェリー乗り放題のチケット(1週間有効・都心ゾーンは約A$20だった)を使って市内のいろいろなところを回った。

治安は思うほど悪くはないが(むしろ良かったと思う)、シドニーではCentral Stationのガード下など、下町っぽい所ではマリファナとかを売ろうとするおじさんたちが近づいてくるので注意をしたほうが良い。

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1994年11月12日(土曜日) anchor.png

シドニーを出発。Kirklandという会社の長距離バスで、片道A$48.50であった。学割が利いたため、結構安くなった。夕方にシドニーのCentral Stationを出て、13時間の長旅であった。 同じバスに、インド系の家族が乗っていたのを見て、「ああ、ここは移民の国なんだなぁ」と実感。

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第3章・ブリスベンでの新生活 anchor.png

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1994年11月13日(日曜日) anchor.png

昼にブリスベンのCentral Stationに到着。語学学校の人が迎えにきてくれて、そのままホームステイの家庭に車で移動。お世話になる事になったのは、子供のいない若い夫婦の家庭である。
お世話になったSteveは、University of Queenslandの電気技師、Nikkiは保母をしていた。そこに4週間ステイする事になる。 2人ともイギリスから移民してきたそうだ。

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1994年11月下旬 anchor.png

このころから、ホームステイ期間終了後の新しい住まいと、車を捜し始める。
ホストファミリーや語学学校の先生たちからいろいろなアドバイスをもらう。

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1994年12月上旬 anchor.png

A$850で1975年製マツダの808(カペラの前身)を購入。やはり公共交通機関が発達していないオーストラリアでは車は必要だと思う。
ガソリンが1リットル55セント(=40円くらい)と安いので、いつくるかわからない電車とかバスとかを使うのは馬鹿らしい。ちなみに道が広いので駐車場は要らない。

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1994年12月12日(月曜日) anchor.png

新しい住まいに引っ越し。オーストラリア人女性と韓国人男性と自分の3人での共同生活、つまり一軒家をShareすることになる。ベッドルームは別で、週A$60。語学学校の張り紙で見つけた。
食事は3人で順番に作る事になる。これが後にトラブルの原因になる。

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1994年12月中旬 anchor.png

この頃から仕事を探し始める。語学学校の期限が1月初めで切れるため。この時も語学学校の先生たちにはいろいろとお世話になった。

この頃、すでにわが愛車のエンジンの下からオイルが少しづつぽたぽたもれていた。
エンジンオイルはK-mart(スーパーマーケット)で5ドル足らずだったので、車を修理せずに「減ったら継ぎ足す」という事をした。冷却水も少しづつ減っていくので、ペットボトルに2本くらい水を入れて車のトランクに積み、エンジンオイル同様「減ったら継ぎ足す」作戦だ。

http://www.hvd.jp/images/auslife/ontheway2.jpg

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ボロ車には、保険や自動車連盟への加入は必須! anchor.png

自分のように予算の関係上ボロい車を乗る事になった人は、あっちのJAFみたいな自動車連盟(QLD州ではRACQ、NSW州ではNRMAという)に入っておいたほうが良い。
簡単なトラブルだったら、何回呼んでもタダだし、数キロまでだったらレッカー移動も無料!
故障とかの原因も教えてくれるのがGood! バッテリーの交換が必要とか言うのなら自分で買ってきて交換すれば安上がりになる。
ちなみに、自分は通算で30回くらいは呼んだと思う。
車の鍵あけから、レッカー移動、パンクタイヤの交換、故障の原因究明・・・いろいろやってもらいました。

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1995年1月1日(日曜日) anchor.png

BrisbaneのSowthbank Parklandという公園で、New Yearを語学学校の友人たちと迎える。カウントダウンとともに花火が上がり、ビールを飲みながらパーティー気分。

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第4章・仕事探し anchor.png

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1995年1月上旬 anchor.png

真剣に仕事を探さなきゃということで、新聞を見ては電話をかけて相手にコンタクトを取ったり、求人票をに目を通す日が続いた。Job Centerに毎日通い、紹介状(写真)をもらっては、面接に行くが、語学力が障壁となってか、ことごとく断られた。

http://www.hvd.jp/images/auslife/job_refferal.jpg

「当たって砕けろ」の精神で、自分の手作りの履歴書を手に、日系企業のオフィスや喫茶店、旅行代理店を攻略していったが、なかなか仕事にはありつけない。

でも、ワーキングホリデーに来た人が就きやすい日本食レストランや日本人相手のツアーコンダクターの仕事には妥協ができないと、オーストラリア人ばかりがいる環境で仕事を探すことにしていた。

わからない単語はすぐにメモし、辞書で調べるといった感じで、実用英語の知識と経験を蓄積していく。仕事探しの時も、移動するのに車がずいぶんと役に立った。

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1995年1月中旬 anchor.png

いつもと同じようにいろいろな会社を訪問している中、電話帳を探して見つけたある日系会社のオフィスを訪問し、"I'm looking for any office work. Do you have any job vacancy?(仕事を探しているが、空きはありませんか?)"と言った感じで突入し、履歴書を置いていったところ、家に帰ってから電話がかかってきた。

「仕事はないけど、うちの子供の日本語の家庭教師をやってくれないか?」という依頼があり、喉から手が出るほど仕事が欲しかった自分は、喜んでその家庭の日本語教師をする事にした。

自分の家の近くに住む、その鈴木さんの家庭は、旦那さんが日本人で奥さんがオーストラリア人の家庭であり、自分はその子供たちに日本語を教えると言う役目をしていた。

子供たちは生まれたときからオーストラリアに住んでいるが、両親が日本語を話せるため、あるていどの日本語を知っていた。日本の文部省から送られてくる「国語」の教科書を本を使い、日本語を教えた。(写真は家庭教師で教えていた子供たち)

http://www.hvd.jp/images/auslife/bneairpt.jpg

鈴木さんの家庭には、単なる家庭教師だけではなく、オーストラリアでの一人暮らしを始めた自分をいろいろと助けていただいて、本当にお世話になった。

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1995年1月下旬 anchor.png

日本から持ってきたノートパソコンとプリンターを活用し、"Japanese Tuition (日本語教えます)"の張り紙を作製。

http://www.hvd.jp/images/auslife/jap_tuition_s.jpg

あらゆるショッピングセンターの掲示板に張ったところ、何件か問い合わせが自分の携帯電話にかかってきた。日本語の家庭教師の時給はだいたいA$20で、当初は週に3人の生徒を教えていた。

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1995年2月上旬 anchor.png

一緒に住んでいたオーストラリア人女性と韓国人男性と、ライフスタイルの意見の違いからけんかになり、荷物を全部車に詰め込み脱出する。夕方ピザの配達をやっていたために、食事のしたくに参加しなかった事や、(自分の場合)韓国風の辛い食べ物が合わなかった事とかで、思惑の違いがだんだん大きくなっていったのが原因だった。

けっきょく車に泊まりながら新聞で新しい住まいを捜し、こんどは3人のオーストラリア人との共同生活をする事にした。プール付きの1件家を4人で借りることになった。当然ベットルームは別で、2週でA$90であった。
住まいはCamp Hillという、市の東に位置する静かな住宅街に位置し、海からも近い場所にあるため、この頃から暇な時に車で釣りに出かけるようになる。

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1995年2月下旬 anchor.png

映画のエキストラ(Japanese Movie Extra)募集の張り紙を見て応募したところ、審査に合格し映画に出演する。
主演は玉置浩二、タイトルは、"The Last Bullet(最後の弾丸)"といい、Channel 7(日本ではNHK)で放映されたテレビ映画である。ギャラは2日間でA$200であった。

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1995年3月上旬 anchor.png

Job Centerの張り紙で、Japan Food Corpという、キッコーマン出資の日本食の食材の輸入・配送会社での短期の仕事を見つけ、4月上旬まで働く事になった。
香港人のSamuelとともに、ライトバンでBrisbaneとGold Coastをかけ回った。

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1995年3月中旬 anchor.png

Job Centerの張り紙で、ピザの配達の仕事を見つけ、Delivery Driverを始める。自分の車を使ってピザを配達し、時給はA$10.5+配達ごとにA$1.3であった。日本食のレストランでウェイターや皿洗いをするよりも良い時給である。

http://www.hvd.jp/images/auslife/pizza.jpg

職場はみなオーストラリア人であり、自分の不完全な英語もよく聞いてくれた。
今思えば、オーナーのSergeがオーストラリア移民の二世であったため、外国人であった自分に理解があり、面倒を見てくれたのだと思う。

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1995年3月下旬 anchor.png

仕事も順調に見つかって生活が安定し、語学力も順調に伸びてきたのに、今帰国するのはもったいないと判断し、大学の休学期間をもう1年延長し、ワーキングホリデービザの期限ぎりぎりまでオーストラリアに残る事を決意する。

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第5章・ブリスベンライフ anchor.png

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1995年4月14日(金曜日) anchor.png

この日から1週間ほどイースターホリデー。じつは、前日のピザの配達をしている途中から、車がだんだん動かなくなってきていた。

車がなければ仕事ができないので、車の調子が悪いこの日は仕事を途中でリタイア。
家にたどりついたら、もうエンジンがかからなくなくなっていた。
車が動かなかったために自宅から動く事ができず、RACQを呼んだら、「バッテリーが充電しないからだろう」と言われた。

仕方がないので、Housemateにお願いして近くのK-martまでバッテリーを買いつれて行ってもらい、新しいバッテリーを購入し自分の車に取り付けたら無事に動くようになったが、せっかくのイースターホリデーはこうしてつぶれた。

Housemateが車を出してくれて大変助かったが、彼の車ももう25年前のFordで、この車も故障寸前ではあった。
これが車を買うとき(新車・中古車)に車検を受けたらあとは車検を受けなくてもよいというこの国の現状である。

こうしたことがあったので、工具セットを買って車に積み、車の修理の仕方を本から勉強し、パンク、バッテリー、エンジンオイルにミッションオイル、スパークプラグ、ブレーキパッド、タイミングベルト、ダイナモ、カーオーディオ配線などと、それくらいのレベルなら修理できるようになった。

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1995年6月末 anchor.png

オーストラリアでは税の会計年度が7月から始まるため、6月末に税の確定申告をする。この時期になるとお店では在庫一掃(Stock Clearance)バーゲンをよく見かける。

ワーキングホリデーで来て働いている自分もその対象だ。税金が給料から天引きされているため、収入を申告して税務署(Taxation Office)に右写真のような書類を提出すれば、税金の返還(Tax Refnd)を受けることができる。

あらかじめ、納税者番号(Tax Number)を取得しておき、収入をもらった会社からは、Group Certificateと呼ばれる収入証明(写真)を受け取っておき、それらに基づいて書類に記入する。

http://www.hvd.jp/images/auslife/taxreturn.jpg

書類は冊子状になっており税務署で配布している。Yes/No形式で該当する場所だけ記入すればいいので、記入する場所は少なくそれほど難しくはない。

もちろんワーキングホリデーで来ている人でこの作業をしない人は多いが、余分に天引きされている分の税金の返還は受けられない。

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この頃の日常生活 anchor.png

平日は家庭教師とピザの配達をし、休日はゴールドコーストやサンシャインコーストへ出かけて泳いだり釣りをしたり、夜は仲間とバー(Nightclub)にでかけてエンジョイするという生活を送っていた。

家庭教師のほうは、"Japanese Tuition(日本語家庭教師)"と書いたびらを多数作成してショッピングセンターや、大学・語学学校などに貼りまくっていたおかげで、自分の持っている携帯電話に徐々に申し込みの電話が入るようになり、週に7人くらい同時に教えるくらいまでになった。

昼は1回2時間の家庭教師を1〜2件し、夕方からピザの配達を4時間くらいしていた。それで1ヶ月の収入はだいたいA$1500くらいになった。外食はしなかったので、生活費にA$500くらいしかかからず、のこりはすべて定期預金にしていた。

平日の夜には、仕事の後に近くの海へ釣りに行ったりした。
タイもイカも釣れ、家に持ち帰って刺し身にしたり、イカそうめんにして、自分の食料とした。 週末にはjapan Food CorpでDerivery Driver仲間だったSamuelとゴールドコーストのほうへ釣りに行ったりした。

http://www.hvd.jp/images/auslife/coralfishing.jpg

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1995年9月中旬〜10月上旬 anchor.png

ブリスベンからケアンズまで、自分のぼろ車で旅に出かける。片道2300km。
2週間の間、自分のボロ車はめずらしくいたって快調で、トラブルらしきことは、Townsvilleの手前で起きたパンク1回だけだった。

Pacific Highwayをただただ北上。毎日5〜6時間走りながらいろいろな町や観光地に滞在し、最終目的地のケアンズまでは片道で1週間かかった。

http://www.hvd.jp/images/auslife/ontheway.jpg

途中、何十キロも家一つない草原や大地を走り、車で跳ねられて死んでいるカンガルーを何百頭と見た。(写真は自分の車の運転席からの国道1号線Rockhampton付近。こんな道が延々と続く。)

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第6章・帰国 anchor.png

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1995年10月初旬 anchor.png

「もうすこし長く滞在したい」という思いが強く、ビザの延長を意識し始める。

貯金があったので、観光ビザ(3ヶ月)や、学生ビザをまず考えたが、遊んで暮らすのは性に合わないとこれはやめた。ニュージーランドへのワーキングホリデーを狙う手も合ったが、一度日本に帰国しなければならないのと、やはりオーストラリアが自分にとって良かったので、これもやめた。

元働いていたピザ屋のオーナーのSergeや、マネージャーのChrisは、自分の働きを見て「これからもここで働いて欲しい」と心強いことを言ってくれた。しかし、就労ビザを取得するためにはAustralian Job Market Assesment(オーストラリアでの職の要求度)に就く職種が合っている必要があり、つまりピザの配達くらいなら誰でもできる為一外人にビザの発行をするほどの理由にならない、ということでありビザの申請をあきらめた。

「そんな職種じゃビザはおりないよ」とImmigration(移民局)や、ビザ・エージェントに言われた時、「いつかビザ申請を認められるような技術を身につけて、オーストラリアに自力で帰ってくる」と思った。そしてその時、帰国して残りの大学生活とその先の就職に賭けることにした。
単に大学を出るだけでは自分自身にとって世界に通用する能力が身につかないということを実感し、後の自分自身の人生観に大きな影響を与えることになる。

仕方がないので、10月14日に切れるワーキングホリデービザを、入国日の11月4日まで丸々1年すごせるようになるよう、A$130を支払いビザ延長申請を行う。

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1995年11月3日(金曜日) anchor.png

すでに帰国準備の為に10月末で仕事は辞めていたが、この日ピザ屋のオーナーとマネージャーがディナーに招待してくれた。職場の仲間達のメッセージが入ったカードを渡されて感無量であった。日本から一人でやってきて、この国に飛び込んだ自分を温かく迎えてくれたオーストラリアの皆さん、本当にありがとう。

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1995年11月5日 (日曜日) anchor.png

ブリスベン空港よりオーストラリア出国、シンガポール着。
その後、マレーシア、タイ、インドネシアを回る。

参照:アジア大陸横断の旅その1

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1995年12月10日 anchor.png

シンガポールを出発し、名古屋に到着。

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できる限り詳しく書いたつもりの、この手記がこれからワーキングホリデーに出かけるかたの参考になれば幸いです。なお、情報は1994〜1995年のものであり、現状と違っている事も多々あるかもしれませんのでご了承下さい。


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Princeps date: 2006-12-25 (Mon) 05:36:00
Last-modified: 2009-04-30 (Thu) 22:33:52 (JST) (1013d) by ゲスト
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